ダイエットという言葉ぐらい目的と手段が曖昧になっている言葉はない。ダイエットに対する批判をしたいわけではなく、そのあり方に違和感があるのだ。世の中にはダイエットが目的になっている人が大勢いる。
本来であれば別の目的があってそれを達成する手段のひとつとして「ダイエット」がある。どういうことだろうか、目的のために痩せるのではなく痩せれば何かが変わると思いこんでいる人のほうが多数派だ。
まず目的があり、そこを目指すために必要な手段を考える
ダイエットに限った話ではないが、手段が目的になってしまったとき、ほとんどの場合失敗する。明確な目的があり、そこに対する情熱があったときだけ人は継続した行動が可能になる。何のためにやっているかわからない行動が長続きすることはない。
自分がどういう生き方をしたいのか、自分のビジョンはどこにあるのか。まずそこを考えて欲しい。フルマラソンを完走できるようになりたいといったものでもいいし、海外に友だちを作りたいというものでもいい。
目的が明確であればあるほど情熱の炎は激しく燃えることができる。
マラソンの完走を目指すならまずは体重を落とすこと。それこそ手段としてのダイエットが必要になる。海外に友だちを作りたいのであれば、外国語の習得が必須になる。英語や中国語を話すことができなければ知り合いはできても友だちはできない。
どちらの場合も、目的が「どうしても達成したいもの」であれば、情熱は自然と湧いてくる。
手段が目的になるのは暇だから
手段が目的になってしますのは人生が暇だからだ。どうしてもやりたいこともないから暇つぶしでダイエットをしたり、英会話を学んだりする。悪いことではないがベストではない。
30歳を超えて、自分の夢を語れないような大人になってはいけない。
暇を持て余してただ生きているだけの人間になってしまうことに危機感を持たなくてはいけない。できることなら「ダイエットする時間がない」「英会話を学ぶ時間がない」くらいに夢中になって生きることが理想的な生き方になる。
なんとなく生きるのはやめたほうがいい。人生をかけてやりたい何かを探し続けて欲しい。何も世界を動かすような夢でなくてもかまわない。ただ純粋に情熱を注げるものを見つけるのだ。
すぐに見つかることはないだろう。でも諦めてはいけない。情熱を注げる何かを探すことをやめるということは、人生を諦めるのと同じ意味になる。君が人生を諦めるにはまだ早すぎる。